1999年の人気絶頂期、GLAYは“解散”を本気で考えていた。GLAYが月刊「文藝春秋」6月号で初めて明かした“1999年の解散危機”。事務所との対立、感情の摩耗、「別名で再出発」の提案──それでも彼らは話し合いを重ね、解散を回避した。「プライドって、意外とちっぽけかも」──そう語ったJIROの言葉に、今も響くものがある。
GLAYが明かした
1999年の解散危機
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擦った揉んだの果てに残った絆と継続の美学
日本の音楽シーンを席巻していたGLAYに、誰も知らなかった“解散危機”があった──。
25年の時を経て、TERUとJIROが明かしたのは、ステージの裏で揺れていたバンドの核心。
「もうステージに戻りたくなかった」「GLAYじゃない名前で再出発しようか」
そんな言葉が交わされた夜のこと、そして、それでも彼らが“続ける道”を選んだ理由とは?
なぜ1999年にGLAYは解散の危機にあったのか?
いつ・どこで起きたのか?
1999年。GLAYは日本音楽界の頂点に立っていた。「HOWEVER」のミリオンヒット、ベストアルバムの500万枚出荷、そして幕張メッセ駐車場での“20万人ライブ”。人気と影響力がピークに達したその年、バンドは静かに、しかし深刻な危機を迎えていた。
事の発端は、当時の所属事務所との軋轢だった。メンバーは音楽の純粋性を守ろうとしたが、業界の論理とぶつかりあう場面が増えていく。JIROは「妥協するか、プライドを貫くかの岐路にいた」と振り返る。
なぜ注目されたのか?
ファンの間で「GLAYは仲が良い」という印象は強かった。それだけに、メンバーが「もうアンコールに応えたくなかった」と語るような事態は、予想外だった。ツアー中、JIROの笑顔は消え、TERUでさえ「GLAYじゃない名前でやる話も出た」と明かしている。
事務所との確執と、メンバー間の疲弊。言葉にしない“限界”が、バンドを静かに追い詰めていた。
GLAYを追い込んだ「成功の重圧」とは?
1990年代後半、日本の音楽業界では“ミリオン”が当然視される時代が到来していた。
GLAYもまた、その期待を一身に背負い、毎年のようにアルバム・シングル・ツアーを繰り返していた。
事務所との軋轢の背景には、そうした「止まれない環境」もあったという。メンバーの意志とは別に、求められるものが加速し続けていた。
1997年〜1999年にかけて5作品がオリコン1位
ライブ規模が急拡大(ホール → ドーム → 屋外特設)
メディア露出と創作時間の乖離が拡大
どんな解決があったのか?
決定的な転換点は、4人だけの話し合いだった。TERUが思い出す。「“自分たちが大切にしてるプライドって、意外とどうでもいいのかも”って気づけたのが大きかった」。
それは、妥協ではなかった。お互いを信じるための“再定義”だった。バンドとして続けるには、形式ではなく本音が必要だった。
危機当時と現在のGLAY
要素 | 解散危機当時(1999年) | 現在(2025年) |
---|---|---|
所属 | 旧事務所と衝突 | 独立後、自主的に活動管理 |
関係性 | 緊張・意見の対立 | 言いたいことを言い合える関係 |
メンタル状況 | 疲弊・不信感 | 自信・信頼・安定 |
活動体制 | 解散も視野に | 問題はすべて4人で解決 |
GLAYが乗り越えた「継続の力」とは?
どんな教訓が得られたのか?
1999年の解散危機は、GLAYのターニングポイントだった。それ以降、バンドは明確に変化した。「話し合えば解決できる」「決定は全員で行う」という原則が定着したのだ。
その集大成が、2012年の大阪・長居スタジアムでの発言だ。アンコールでTERUが叫んだ。
「絶対に解散しません」
その言葉は誓いというより、報告だった。誰に強いられることもなく、GLAYは自らの意志でバンドを続けていくと決めたのだ。
【GLAYの危機と再生の流れ】
【1999年】音楽的成功 → 事務所との摩擦
↓解散検討 → “GLAYではない別名義”の提案
↓4人で話し合い → プライドを手放す
↓解散回避 → 再結束 → 活動継続
↓【現在】独立・結束強化・紅白復帰
✅ 見出し | 要点 |
---|---|
▶ 解散回避のカギ | 「プライドより音楽を選ぶ」という価値観の変化 |
▶ 再結束の証明 | 2012年の長居での「絶対に解散しません」宣言 |
▶ 継続の秘訣 | 話し合いと自律、GLAYは“4人”であること |
▶ 今後の展望 | 経験を経て「どんな問題も乗り越えられる」という自信 |
GLAYはなぜ今も解散せずにいられるのか?
メンバー間の“バランス感覚”
解散危機を経験した今、GLAYの4人は「対等な関係性」の重要さを知っている。言いたいことを言い合い、それを全員で受け止める。この“バランス”が、バンドを継続させている。
TERUは言う。「今は自分たちで何でも決められるし、どんな問題も4人で解決できる」。
継続の美学=“解散しない理由”
GLAYの継続には、数値では測れない“思想”がある。それは、「続けることそのものが価値である」という信念だ。
ファンと音楽と、4人だけの関係。それが、GLAYという名前に宿った意味なのだ。
GLAYが選んだのは「伝説」ではなく「継続」だった
解散したバンドは数あれど、解散しなかったGLAYは、実はもっと珍しい。
“伝説”より、“継続”を選んだ4人。
それは音楽への誠実であり、人生への挑戦だったのかもしれない。
FAQ
Q1. GLAYの“解散危機”はいつ起きたの?
→ 1999年、業界の圧力と事務所との摩擦のなかで。
Q2. 具体的にどんな話し合いをしたの?
→ 「GLAYではない別名義でやる」案も出るほど深刻だった。
Q3. 解散しないと決めたきっかけは?
→ “プライド”の再定義と、「音楽をやりたい」という想い。
Q4. 今後のGLAYはどうなっていく?
→ どんな問題も“4人で解決する”という自信があると明言。